「セキュリティが大変だった。家に戻る時が大変そう」
「せいぜい泥棒と間違われないようにね」
「いっその事さ、みんなが寝静まった頃に帰った方が楽かも」
そこでニンマリと笑ってみせる。
「家を抜け出すのって初めて。ちょっとドキドキした。家出する子って、こんなカンジなのかな?」
「味をしめて、プチ家出なんてするなよ」
「しないよ、そんな事。する理由が無いもん」
では、兄には家を出る理由があったという事なのだろうか。何かの目的のために、家を出ざるを得なかったのだろうか? それとも、涼木家そのものに、不満でもあったのだろうか?
鈴さんのために何かをしたいと、言っていたようだけれど。
そこでそっと身を寄せる。
「ねぇ、ここからはマジな話。本当に、いつまでこんなところに居るワケ?」
「あと少し」
たぶん。いや、そうであってほしい。これ以上こんなところに居たら、マジで風邪ひきそう。私はともかく、ツバサが熱でも出したら厄介だ。きっと大事な涼木家のお嬢様なんだろうし、母親はなにやら過保護な女性らしそうだから、大騒ぎにでもなりそうだな。
それに、さすがにここで日を跨ぐのはマズいだろう。ツバサにそんな事をさせるワケにはいかない。お母さんの話じゃないけれど、こんなところを誰かに目撃でもされたらそれこそ一大事だ。
普段の態度があまりにも気さくで、唐渓に通いながら気取ったりもしない。だから忘れてしまいそうになる。
ツバサと私、よく考えたらすっごい格差のある間柄なんだよね。
なんとなく、寒さが身に沁みる。ジャンパーの襟を押さえる。
「もうちょっとだよ」
たぶん。たぶんもうちょっとだ。ってか、早く来てよ。まさか、このまま霞流さんは来ませんでしたなんてオチはナシだからね。
心内で叫び、その言葉に自らギョッとする。
ひょっとして、今日は霞流さんは来ないとか?
その可能性は、実は否定はできない。美鶴が彼を待ち伏せしている時でも、結局は姿を現さなかった事は幾度もあった。彼の行き先はここだけではない。美鶴は知らないが、他にも馴染みの店はあるようだ。
ひょっとして、このまま空振り?
ゾゾゾッと悪寒が走る。
さすがにそれはマズい。自分だけならともかく、ツバサが一緒なのにそれはマズい。やっぱり、電話で連絡取るべきだったのだろうか? 少し不安でも、ユンミさんを頼るべきだったのだろうか? いきなりこんなところに乗り込むなんて、無謀だっただろうか?
「ねぇ、美鶴?」
「あ、あと少し」
声が震える。それは寒いばかりではない。
「もうちょっとって、何時頃くらい? それくらいわからなとさぁ」
「そうだよ」
背後の声に、美鶴もツバサもビクリと飛び上がる。慌てて振り返る。暗闇の中、人影が動く。
「おまえら、何やってる?」
ゆっくりと動き、やがて外灯の明かりがその顔を照らす。
「蔦」
ツバサは声も出せずに両手で口を覆った。
「どうしてここに?」
「付いてきた」
「付いてって、私を?」
「どうして?」
呆れたように笑う蔦康煕。
「電話の様子がおかしかったから」
そこで軽く両腕を広げる。
「悪いけど、それくらいの勘、俺でも働くぜ」
絶句して動けないツバサ。
「まぁ、女同士の付き合いってのもあるんだろうから、俺が口出しするのも野暮かと思ってそこの陰で黙って見てたけど、さすがにこれ以上の無視は無理だ」
「愛ってヤツだな」
美鶴がからかう。本当は驚きで声も出ないところだが、それ以上に驚いているツバサを見ると、なんとなく感情が冷めてしまう。
「羨ましいコトで」
「くだらない冗談はやめろ」
ツバサの後を付いて来たと言うことは、ずっと二人の姿を陰から眺めていたという事なのだろうか? なぜこのタイミングで声を掛けてきたのだろう? 聞きたい事は山ほどある。が、今は霞流を待ち伏せる方が先だ。
再び暗闇へ視線を投げる美鶴。その姿に、蔦康煕=コウが肩を竦めた。
「くだらない冗談、か」
己が口にした言葉を反芻するように口元を少し緩め、やがて瞳がスッと細くなった。
「そうだな、俺は冗談なんて言いあうために出てきたワケじゃない。それじゃあ、本題といこうか」
言うなり一歩前へ。
「お前、どういうつもりだ?」
「は?」
「ツバサをこんなヤバい所に連れてきて、どういうつもりだって聞いてるんだよ」
素早く振り返る。すでに背後にまで迫ってきていた。
しまった。
そう思った時には遅かった。
「コウっ」
慌てて止めに入るツバサも間に合わず、コウの右手が美鶴の襟首を掴む。
「別に俺ぁ、お前がこういうところで商売するような人間だとは思ってねぇよ。学校の他の連中みたいにお前が特別ふしだらな人間だなんても思っていねぇ。だけどな」
握る手に力を込める。
「ツバサを巻き込まれちゃあ、黙っちゃいられねぇ」
「巻き込むって、何を」
慌ててジャンパーを引っ張り返す。
ヤバい。コイツ、ツバサの事となると周りが見えなくなるんだった。
「ツバサをこんな場所に連れてきて、しかもこんな寒い中で暗闇に立たせて、どういうつもりだ?」
「ちょっと待て」
「まさか、ツバサになにかとんでもない事をさせようってんじゃねぇだろうなぁ?」
「とんでもない事って?」
「それはこっちが聞いてるんだよっ!」
すでに暴走し始めている。
「痛いっ やめろ」
「コウ、離して」
二人がかりで引き離そうとするが、すればするほどコウはムキになる。
「離せっ。大迫、説明しろっ こんな夜中にツバサをこんな繁華街に連れ込んで何するつもりだっ」
「だから、別にツバサをどうにかするつもりは」
「だったらどうしてこんなところに」
「だから、説明するから離せって」
「説明が先だっ」
「苦しくて話せない」
「とか言って、離したら逃げるつもりだろうっ」
「何で逃げなくちゃならないんだよっ!」
もはや取っ組み合いだ。男相手に美鶴が敵うはずがない。ツバサが間に入ろうとするが、暗闇で動きがよく見えない。メチャクチャに圧し掛かってくる相手の動きなど読めるはずもない。
「とにかく離せっ」
「説明をしろっ!」
殴りかかりそうなほどの勢いに、美鶴が思わず目を瞑った時だった。
「やめろ」
大きな掌がコウの拳を押さえる。
「誰だっ!」
振り仰ぐ身を抱え込み、勢いをつけて引き剥がした。そのまま地面へ放り投げる。背後から抱えられて抵抗のできなかったコウは、そのまま無様に地面を転がった。コウに捕まれていた美鶴は突然解放され、反動で尻餅をつく。
「コウ」
慌てて駆け寄るツバサ。美鶴は尻餅をついた状態でその姿を見ながら、噎せる呼吸を整えつつ振り仰ぐ。
ハラハラと揺れる金糸は、まるで夜闇に流れる五月雨のよう。細く切れた瞳が冷ややかに見下ろしている。
「俺は女は嫌いだが、さすがにここまではしない」
「あ」
霞流さん。
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